『太陽黒点が語る文明史 「小氷河期」と近代の成立』 桜井邦朋著 中公新書
太陽に黒点があるというのは、通常小学生の理科の授業あたりで習うことで、今は誰もが知っていることであります。しかしその黒点がどのようなものなのかとか、黒点の数が増減することに何の意味があるのかなど、そこまでは理解している人は少ないのではないでしょうか。中には、黒点の数とオーロラが見える頻度がどうやら関係しているそうだというのを知っている人はいるかもしれません。
太陽に黒点があることを観察し、詳細に記述した記録を遺したのは、かの有名なガリレオ・ガリレイ。当時の最先端の知能が、太陽の黒点に興味を持っていたというのも意外であるし、またそんなことに興味を持ってどうするんだという突っ込みを入れたいところもあるが、普通の人が全く興味を見せないところに興味を持つところが天才たる天才の由縁なのだろうか。
本書の発行は、1987年(昭和62年)。平成元年が昭和64年ですから、私のような昭和生まれにとっては、あぁ、あの頃かとどことなく最近という気もしますが、実際は今(平成29年)から30年前ですから、最先端の科学においては一昔どころに騒ぎではありません。本書の中には、「「小氷河期」と「核の冬」」という章があるところを見ると、当時の米ソ対立の先行きの不安定さを物語っており、時代を感じさせるところがあります。しかしそうは言うものの、オバマ政権で核廃絶が本格的に訴えられたものの、未だに核兵器がこの世に多数存在するところを考えると、人間の進歩は遅いものだとも思ったりもするわけであります。
ということで、とりとめのない前置きが続きましたが、そうすると、30年前に発行された科学の本なんて、今読んでも意味があるのか?と思うかもしれません。しかし、本書の内容は、ある意味時代を超えているところもあり、軽くでも良いので、目を通してみる価値はあるかと思います。
本書の肝は、太陽黒点の活動が増えることによって、寒冷な時代がやってくると言うことが一つ。そしてその寒冷の時代は、暗く閉ざされ、黒死病などの強烈な伝染病がはびこる時代であり、それがために人々は死と隣り合わせに生活している。だからこそ、より思索的な文化が発展するのではないかという、気候と文明の関連を示すのが、もう一つの大きなテーマとなっています。
一見すると太陽の黒点と文明の盛衰などは関係ないと思われますが、そこに着目し、さまざまな考察をしていく姿が、本書の面白いところであります。著者の桜井邦朋氏は、日本を代表する宇宙物理学者の第一人者で、後に神奈川大学の学長を務めたほどでありますから、本書を読んでいても、その切れ味鋭い記述にはどんどん引き込まれる魅力があります。
現在、地球温暖化とその対策が声高に叫ばれていますが、もしそこに太陽黒点という視点を入れたらどうなるのだろうか?もしかしたら現在の温暖化は太陽黒点の影響とも言えるのだろうか?などなど、30年前に書かれた本書は、現在にもさまざまな投げかけを与えてくれます。というのも、本書では地球温暖化の話にも触れており、既にその頃から地球温暖化がクローズアップされてきたことが分ります。そして本書は、その地球温暖化についても、分りやすく解説してくれており、基本的に何が問題あるかを示してくれています。
本書の前半は、黒点の活動とその盛衰によって気温がどのように変化してきたのか、またそれと歴史的な年表を重ねてみたり、偶然とは思えない、その関連性を示してくれています。
そして後半からは、太陽そのものがどのような恒星なのか、そして地球や人類のどのような影響を与えているのかなど、話はより太陽そのものに向かっていき、その記述もまた興味をそそられます。小柴昌俊氏がノーベル賞を受賞したニュートリノのお話しも出てきたりと(当時はまだ小柴昌俊氏がノーベル賞を受賞するずっと以前のお話しですが、まさにその頃にこそ、小柴昌俊氏の研究が花開きつつあったのだろうと推測されます)、それもまた面白いところであります。
個人的には、最後の最後に、太陽と地球環境の関係が述べられていましたが、ADP、ATPの回路系の話はもっと知りたいところであります。
著者にとって、ニュートンやガリレオ・ガリレイは憧れの存在なのか、何度もその動向が現れて、またその周辺の科学者の名前も多く出てきまして、一つの科学史を読むという意味でも、本書の価値はあるかと思います。
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太陽黒点が語る文明史―「小氷河期」と近代の成立 (中公新書)
- 作者: 桜井邦朋
- 出版社/メーカー: 中央公論社
- 発売日: 1987/07
- メディア: 新書
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『〈達者な死に方〉練習帖 賢人たちの養生法に学ぶ』 帯津良一著 文春新書
私たちは、未曾有の高齢化社会に突入しています。お年寄りが無事に過ごせる社会というのは、それはそれでしあわせな社会と言えます。
しかしそれは同時に、私たち一人一人が、生きることだけではなく、最後の日を迎える死に方をどう迎えるかということを意識する社会とも言えます。
織田信長の人生50年の時代から、今や人生80年、90年は当り前の時代であります。しかもその80年、90年の最後は、ひょっとしたら病院のベッドの上で数年過ごす可能性があるのです。寿命と健康寿命の差は、現在10年以上あるといわれていますので、自分がどういった死に方をするかは、もはや他人事ではありません。
著者の帯津良一先生は、長年ガン患者さんと向き合ってきた医師であります。代替療法がこれほど脚光を浴びる前から、積極的にがん治療に漢方や太極拳などを治療に取り入れてきた方。そういった日々の臨床の中から、生きることと死ぬことを見つめてきたのだろうと思いますが、その中で得た確信のようなものを、昔の賢人の話と重ね合わせながら話が進んでいきます。
先ず本書で扱っている貝原益軒は、いわずもしれた『養生訓』の著者。江戸時代を生きた儒家であります。『養生訓』というのは、“養生”つまり、“よく生きるための智慧”のこと。それなのに、本書のタイトルには〈達者な死に方〉とあります。
全く矛盾しています。
しかし帯津良一先生のこのお話を読んでいくと、生きることと死ぬことは同価値であるということ、生きることを知ることは、死ぬことを知ることでである、生と死が相即不離の関係であることがわかります。この世に生を受けることは、宇宙生成の譬えと同じように、まさにビッグバンであることは容易に想像することが出来ます。しかしその逆である死もまたビッグバンであるということは、生と死を見つめてきた著者ならではの視点であり、そしてそれを自分と重ね合わせてみると、ポジティブに死を受け入れることができるように思います。
帯津良一先生は、写真で見るととっても太っています。決して健康そうには見えないわけでありますが、しかしいつもにこにこしているその顔は、とてもしあわせそうであります。本書を読むとそのしあわせに生きる基礎、みたいなものがにじみ渡っています。
帯津良一先生は、決して無理をしてないそうなのです。看護師さんから太りすぎであることを指摘されてもどこ吹く風で、自分のやりたいことやってきたそうです。そういった無理のない生き方こそが、健康の秘訣のようです。
そしてそれは、死に方にも通じるようです。決して抗うのではなく、受け入れる、そしてその最後の時がきたときには、新たな再生のために、死というビッグバンに勢いよく飛び込んでいく、そういった気持ちで晴れ晴れとしていることが、帯津良一先生の笑顔の秘訣のようです。
本書は、“達者な死に方”と書きながら、“養生法”という全く対立するベクトルのものを並べたタイトルですが、向かう先は同じ生命の源に通じています。ちょっと舐めて読み始めたのですが、著者のいわんとしている世界観は、とても奥深いものがあります。
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『ケトン体が人類を救う 糖質制限でなぜ健康になるのか』 宗田哲男著 光文社新書
本書は、巷で話題の糖質制限の本であります。
糖質制限が良いのか悪いのか、賛否両論があります。まだまだ検証が必要なところもあるようですが、それでも実際に効果が出ている話も多いですし、実際に炭水化物をしばらく抜いてみると、体調が良くなることを実感したりもします。
本書の著者の専門は、産婦人科。
ということで、本書は産婦人科の先生から見た糖質制限のお話しであります。
本書のきっかけは、糖尿病の妊婦さんの勇気ある決意があったということです。
糖尿病を持ちながら出産をすることは、とてもたいへんなことです。中には中絶をよぎなくされることもあります。
糖尿病の妊婦さんはとても慎重に対応しなくてはならないため、大きな冒険は出来ません。しかし著者は、糖質制限の正しさを確信しているがために、冒険ではなく、むしろ一番安全な道として、完全なる糖質制限を糖尿病の妊婦さんに進言します。
今の常識的なアドバイスからすると、それはとても無謀なことと思われるし、妊婦さんも実行することをためらうのが普通だと思います。しかし、著者の進言を忠実に実践した妊婦さんがいて、そして実際に糖尿病のリスクはなくなり、無事に出産できたという事実が数多く載っております。それを発表する著者も勇気がいることでありますが、それを実践する妊婦さんもまた、もっと勇気のあることではないかと思います。
そんな著者の産婦人科から見た実践例から、著者はさらに糖質制限の根拠を探っていきます。
ケトン体の存在は、これまでの医学的常識からは忌み嫌われるもので、それを増やさないことが奨励されてきました。しかし、実際のところケトン体が人体で何を引き起こしているのか、どんな役割があるのかはほとんど分っていないのであります。人体全てには無駄がないと言いますが、代謝産物として生まれるケトン体もまた、人体の何かに役になっているはず・・・。ではその役目とは一体・・・?
ケトン体が人体でどんな作用をしているのか、著者の思考実験は進んでいきます。婦人科、妊婦さんという視点から考察している点は、他の糖質制限にない身体の事実を示しているのではないかと思わざるを得ません。
糖質制限について興味がある方、糖質制限に懐疑的な方など、糖質制限について知りたい方にとって、本書は新たな思考実験の機会を与えてくれるでしょう。
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ケトン体が人類を救う 糖質制限でなぜ健康になるのか (光文社新書)
- 作者: 宗田哲男
- 出版社/メーカー: 光文社
- 発売日: 2015/11/17
- メディア: 新書
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『知の編集術 発想・思考を生み出す技法』 松岡正剛著 講談社現代新書
ネタバレになってしまうかもしれませんが、“世の中なんでも「編集」”というのが本書の基本コンセプト。
世の中を「編集」という言葉で輪切りにしていくと、実に様々な事柄が立体的に蘇ってくる、そんなことを伝えたい著者の強い思いの結晶。
インターネットが登場し、さらにスマートフォンが一般化したこの時代、老若男女全てがこの情報の海に翻弄されているといっても過言ではありません。この私の場末のしがないブログだって、インターネットの大海原の中では離れ小島でしかありませんが、ひょんなことからどこの誰かが漂着することもわるわけで、そうしたらそれは孤島ではない。決して誰も訪れることのない孤島ではなく、誰かがなにかを感じる小島なのだ。
こんな小島が至る所にあるのがインターネットである。
その大海原を整理し、編集しなくてはいけない。それはGoogleのような大きな企業の役目でもあるとともに、利用者である私たち自身も情報の海を編集しなくてはいけない。そうしないと、有効な情報を見逃してしまうし、不要な情報に振り回されたり、騙されたり・・・。
そう、今こそ「編集」が必要な時代なのだ。
本書が出版されたのは2000年。インターネットが普及しはじめた頃。
そんな時代にあって、まるで今の時代を予言したかのように、現代に必要なことを解いてくれています。
本書の中では、所々「練習問題」があります。何せ新書という限られたスペースですので、それはじっくりと考えさせるような感じではありませんが、それでも考えるヒントを与えるに十分であり、読むものに刺激を与えてくれます。
本書は、全てが編集というコンセプトでありますから、いわゆる編集者と呼ばれる方だけに向けたものではありません。編集とは、ある仕事に限ったことではなく、生きていくことそのものが編集であると言うことなので、お寿司屋さんであっても、八百屋さんであっても、鍼灸師であっても、営業の方であっても、主婦であっても、職業に関係なく全ての人に通じる、より良く生きるための手法。
自分の“生きる編集”技術が本書を通して目覚めはじめたとしたら、インターネットの力に振り回されることなく、もっともっと今よりも有意義な情報の活用が出来るのではないでしょうか。
もし今の時代、この本をアップデートしてくれたら、もっともっと有効な一冊になると思われますが、そんなことをしなくても、十分この時代へのヒントをくれる一冊であります。
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『コンプレックス』 河合隼雄著 岩波新書
本書の著者である河合隼雄氏は、ユング学派の心理学者として著名であり、一般の方への啓蒙書から、専門家向けの学術書まで、幅広く多彩な著書があります。
本書は、どちらかというと一般の方よりもより詳しい方に向けた書いたものであり、さらにタイトルの「コンプレックス」という極めて難解な問題に対し、あまり寄り道をせずに学術的に向き合った新書です。
ということで、最初のうちはちょっと取っつきにくい印象で、難解だなぁとこの本を手にしたことを後悔するかもしれません。
しかし、そこをひとまず我慢して読み進めてみてください。
すると、だんだんと河合隼雄氏のペースにはまり込んでいき、どんどんと興味が沸いてくること受け合いであります。
もちろん、全くの初心者が読み進めるにはハードルが高いかもしれません。ある程度ユング派の心理学がどのようなものなのかという概要や、心理学の用語を少し知っておかないと、本書の意図は中途半端にしか伝わらないかもしれません。
本書の内容は、タイトル通り「コンプレックス」について考察したものであります。コンプレックスとはどういったものなのか、心の様相、階層のようなものを最初に解説していき、フロイトの学説とユングの学説の違いなどが分かりやすく示してあります。
私がこの本を手にしたのは、自分の心の中に巣くう手強いコンプレックスを解消したいというがありました。もちろん本書はコンプレックスというものを学問的に考察するのが目的であり、コンプレックスを解消するためのハウツー本や自己啓発本ではないことは百も承知であります。
しかし、“将を射んとせばまず馬を射よ”というように、そもそもコンプレックスとはなんなのか、その定義から見てみようではないかというのがそもそもの興味のはじまりでありました。
ということで、本書の出だしのコンプレックスへの考察は、なるほどなるほどと思えるような、頭での理解を促すとても分りやすい解説が続いており、とりあえずそれはそれで満足いく内容であります。
その満足感を基礎にしながら読み進めていく、すると、何だか本書の感触がどんどん変わっていき、読んでいる私自身の心もまた変わっていくことが分りました。
それは、コンプレックスというものは、決して退けるべきものではなく、自分の成長のためには時に必要なことでもあり、コンプレックスを自覚するということは、自分自身の心の進歩でもあるという、コンプレックスをある意味必要悪とでもいうのか、直視できない辛いことではあるけれど、そこに向き合うことで心の成長に繋がるという肯定的なメッセージが込められているからだと思います。
最初は学術的な内容を期待して読み進めたものでありますが、いつしがたからか、本書から得られる感触は、自己を肯定するためのコンプレックスとの共同の仕方となり、読み終わった後、どことなく心が軽くなっているのが分ります。
本書は、学術的な内容と、自己啓発というものがうまく融合した希有な一冊ではないでしょうか。
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『炭水化物が人類を滅ぼす 糖質制限からみた生命の科学』 夏井睦 光文社新書
私たち日本人は、半ば常識的に米を食べている。ご飯信仰というのだろうか、とにかくごはんさえ食べていればいい、といった風潮さえあるような気がする。農業政策においても米の生産は象徴的に扱われたりするのもその表れではないだろうか。
そいった米を食べることが常識的な文化のなかで、『炭水化物が人類を滅ぼす』などというタイトルを付けることは、相当な勇気がいることではないだろうか。米農家の人々がこのタイトルを見たら、一目散に著者に抗議したくなるだろう。
しかし著者にとってそんな抗議は全く聞くに値するものではないのだろう。というのは、著者である夏井睦氏は、湿潤療法というこれまでの常識と真っ向対決する、新たな傷治療を提唱している方だけに、この新書もまた、炭水化物という常識への挑戦という著者の情熱の塊のようなものなのだから。
本書は、いわゆる「糖質制限」と呼ばれる食事法の本になります。
しかし、本書のなかで、糖質制限のノウハウを語った箇所はほんの少しに過ぎません。著者は熱血漢の方なので、さぞかし厳しい糖質制限を課せるのかと思いきや、意外にも緩く、自分のできる範囲でやりましょうと言った感じの記述しかありません。
では、本書は何のために書かれたのか?
それは、「糖質制限」の啓蒙と、「糖質制限」の科学的根拠について。
最初の数章は「糖質制限」の啓蒙について。しかし著者の性格を表しているのか、とても熱すぎるところがあり、掴みのための出だしの数章なのに、何だかお腹いっぱいになってしまって辟易しそうになる。
しかしそこを我慢して読み進めていくと、第4章からは著者の思考実験が始まっていく。思考実験とは、これまでの治験を組み立てていって、新たな仮説を提出する思考過程であるが、第4章は自然環境などについての思考実験であり、第5章からは生命科学についての思考実験であり、以下多岐に渡って著者の仮説が展開されていきます。ここからの展開は、この新書が糖質制限について書かれた本であることを忘れてしまうくらい濃密である。レビューアーの中には、それは著者の勝手な仮説に過ぎないという反論をしている人もいるが、「糖質制限」というキーワードからここまで広く議論が出来ることは評価に値することであるし、読んでいる方も、その一つ一つの議論の積み重ねにぐいぐいと引っ張られていくところがあります。
ということで、本書は「糖質制限」について書かれた本というよりは、「糖質制限」というキーワードを基に、様々な分野へと視野を広げる思考実験の場といった方がより適切であろう。
もし読者が、「糖質制限についてのハウツー本」を求めているのであれば、本書は全くお薦めには入らない。しかし、糖質制限にまつわる周辺科学や自然環境などを知りたいと思うならば、とても多くの収穫のある一冊になるのではないだろうか。
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炭水化物が人類を滅ぼす 糖質制限からみた生命の科学 (光文社新書)
- 作者: 夏井睦
- 出版社/メーカー: 光文社
- 発売日: 2013/10/17
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『子どもの宇宙』 河合隼雄著 岩波新書
著者の河合隼雄先生は、数ある心理学の流派の中でも、ユング派に所属し、その流派の第一人者であります。惜しまれながら2007年に他界されましたが、著書も多く、その著書の中には人間への温かい眼差しに根ざした言葉多く、励まされた方も多いのではないでしょうか。
本書は、タイトル通り、“子どもの宇宙”、つまり、子どもの心の中に拡がる広大な心象風景について、河合隼雄先生らしい視点でやさしく述べたもの。
本書の特徴は、難しい心理学の用語がほとんど出てこないこと。そして、子どもの宇宙を語る題材として、主に児童文学を取り上げているところ。私個人としては、児童文学にはほとんど馴染みがなく過ごしてきたので、正直本書を読み始めた当初は、それらを取り上げる意味があまりピンときませんでした。大人が子どもに向けて書いた本ということで、子どもの視点と言うよりも、大人の視点に成り下がっていないのか?という疑問もあり、中には実際に作者が幼少期に経験したことを、寓話的に盛り込んであるのだと思いますが、それにしても、そこに子どもの宇宙が再現されているのだろうか?という疑問がありました。
しかし読み進めていくうちに、それぞれの物語には子どもの宇宙が色濃く遺っており、そこから子どもの心象風景を理解する足がかりになると言うことが示されていて、とても興味深くなります。
一見何気なく読み過ごしてしまいそうな物語の中に、見逃してはいけない子どものサインを見つけ出す、そうったクライアントに寄り添った眼差しは、著者の河合隼雄先生ならではということなのでしょうか。
河合隼雄先生が所属するユング派は、夢の世界を重視したり、シンクロニシティ(意味のある偶然)を大事にしています。例えば、クライアントがガラッと変わる時のきっかけとして、夢で死を経験したり、何か突然動物が現れたりと、偶然なのか、必然なのか、振り返るとあれがきっかけになったという事件のようなことが起きたりするそうです。特にセラピーやカウンセリングを受けている最中にはそういったことが起きやすく、そしてそのきっかけによって、クライアントの状況が一変して改善していくということがあるそうで、そこに大きな深層心理の力が関わっているというのが、ユングの考え方の一つです。
本書にも実際のカウンセリングの実例が載っておりますが、そういったきっかけがやってくる時はとても感動的で、クライアントはもちろんのこと、カウンセラーも一つの成長を遂げると言うことで、とても興味深いものがあります。
実際我々の普通の生活の中でも、大なり小なり様々な事件のような不測の事態が起きるわけで、渦中の中にいると右も左も分らなくなって戸惑うこともありますが、こういった何かのきっかけになるというユング派の説を頭の片隅にでも置いておくとちょっと心が楽になるかもしれません。
本書は、上述したように、やさしい児童文学を例に挙げて話を進めているので、とても簡単に読むことができると思います。しかしその簡単な記述からは考えられないくらい、多くの示唆に富んだ内容となっています。そして、決して焦らない河合隼雄先生の“待つ”姿勢は、現在子育てをしている真っ最中の方にも、現在ちょっとした悩みを抱えている方にも、大いに参考になるところがあるのではないでしょうか。
子どもという時期は、心も身体も大きく変化を遂げる時期であります。その時期を誰もが通ってやがて大人になります。十人十色の幼少期を過ごして大人になるわけですが、完璧ではないにせよ、それぞれの子どもの物語にじっくりと付き合える大人でありたいと思うのであります。
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